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keimizumori

Author:keimizumori
早稲田大学理工学部卒業後、1992年に渡米。芸術・文化・社会問題で新聞・雑誌等に寄稿するジャーナリストとして活動後、 2003年に帰国。「自然との同調」を手掛かりに神秘現象の解明に取り組み、科学的洞察力を養う解説を行うナチュラリスト、サイエンスライター、代替科学研究家。 現在は、千葉県房総半島の里山で農作業を通じて自然と触れ合う中、研究・執筆活動に加え、各種セミナー・イベント等をプロデュースしている。
著書に『ついに反重力の謎が解けた!』、『底なしの闇の[癌ビジネス]』(ヒカルランド)、『超不都合な科学的真実』、『超不都合な科学的真実 [長寿の謎/失われた古代文明]編』、『宇宙エネルギーがここに隠されていた』(徳間書店)、 『リバース・スピーチ』(学研パブリッシング)、『聖蛙の使者KEROMIとの対話』(明窓出版)などがある。


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全米オープン日本人準優勝

僕は横浜市立の中学・高校を出ましたが、硬式テニス部に所属していました。当時、公立中学で硬式テニス部があったのは珍しく、県内でも数校だったため、大会のスタートは県大会からでした。もちろん、私立中学ではテニス部はポピュラーだったので、大会での相手はほとんど私立校でした。私立では、テニスコートが何面も用意されていて、施設が全然違いました。僕の中学では、クレイコート(土のコート)が1面だけでした。クレイコートの場合、もちろん、雨が降ったら使えず、その翌日も翌々日も使えないということは当たり前でした。そんな際はずっとトレーニングでした。
入部当初、1年生のテニス部員だけで60人いました。1年生はとにかくトレーニングでしたが、1日10分だけ打てる時間がもらえました。といっても、1年生は60人もいる。先輩が球出しをして、順番に打っていくだけなので、自分の番が回ってくるのは数回程度。もちろん、打ち返してくれることはなく、一球の打ちっ放しが数回あるだけ。
部員が多過ぎたので、顧問の先生も先輩も、1年生をしごきまくって、人数を減らし、男女10人ぐらいずつにするのを目標にしていました。という訳で、どんどん脱落者を出させて、辞めさせる方向に導いて、最終的に3分の1、つまり、10人ぐらいずつの人数になりました。まあ、今では考えられないことでしょうが、真夏で30度を超えると、恒例の校庭30周を走らされ、ビリになると、罰ゲームで、さらにウサギ跳びとか…。もちろん、練習が終わるまで水も飲ませてくれない。実は、この習慣、高校に行っても同じで、真夏で30度を超えると、今度はサッカー場と野球場の周りの大きな校庭を30周走らされて、ビリになると、罰ゲームをやらされました。
という訳で、大会に出場すると、いつも先輩から言われたのは、贅沢な施設でやってきた私立の奴には負けるな!というものでした。まあ、せめて体力で勝て、と。でも、こうゆうど根性的な環境でやってきた選手は、例えば、チームプレーのスポーツにおいて、何人かは必要な感じもするのですが、本当に活躍する人はそんな感じの人とは違うんですよね。
大会で上位に行く人は、所属を見ると、学校名ではなく、クラブの名前になっている訳です。テニスクラブに入って、いつもやっている連中です。子供の頃からテニスクラブに入るには、もの凄いお金がかかるので、彼らは人数的には少ないのですが、好きで楽しんでやってきたから、とにかく強い。神奈川県は特に競合が集まる県だったので、同期でプロ入りした選手たちを目の前で見てきました。学校所属でも、例えば、慶応は強豪校の一つで、全国大会で優勝するような選手を出していました。松岡修造もその兄も慶応のテニス部でしたが、弟はテニスに専念するため、慶応を出て柳川高校に転向したのは当時としては驚きでした(慶応では一応、勉強もそこそこやらないといけない)。
僕の場合、走り込みは苦手だったのですが、幸い、中学では最後までテニス部に残った人間でした。県大会ではトーナメント制の予選ブロックで4~5回勝ち抜くと、その一人が本戦トーナメント枠に入って、それが128人とか、そんなところでした。それで、本戦でベスト32ぐらいに入ると、関東大会に出場できる。で、一度だけ、関東大会に出場したことがあります。でも、あくまでも出た程度です。敗けた時の対戦相手は慶応で、全国大会を制しました。
そんな大きな大会の会場としてよく使われたのが、吉祥寺の深大寺にある桜田倶楽部でした。当時、桜田倶楽部では、アン清村という女子プロ選手が来ていて、中学生の松岡修造を相手にするようなこともありました。僕は、会場で時々松岡のプレーを見ていました。当時から有名でしたが、必ずしも優勝するという感じでもなく、まだそれほどでもなかった感じでした。僕らは勝手に彼のことをマルコメと呼んでました。というのも、マルコメ味噌のCMに出てきた男の子と似た丸刈りだったから……。身体も大きくなかったあのマルコメがまさかプロで活躍し、現在、あんなに熱すぎる男になるとは思いませんでした。(笑) 当時、特別熱さは感じられず、真夏の暑い時にばてていた姿を見てきたせいかもしれませんが、むしろあまりやる気がなさそうで、同じ倶楽部の女の子を追いかけていたような雰囲気でした。あの時代、女の子と会話する時は、人前で「〇〇ちゃ~ん」なんてはばかりもなく呼ぶことは滅多になく、個人的に話をするときなど、影でこっそりというのが普通だったので、試合会場で人が集まってるところであんな発言を聞いて、「何だあのマルコメは!」なんて思いましたね。(笑)
個人的には、松岡よりも2学年下の辻野隆三の方が国際的に活躍すると思っていました。なんか凄いのが出てきたな、と。実際、プロでもかなり頑張って、荻野目洋子と結婚しましたが、怪我に苦しんで、松岡ほど活躍できなかった印象があります。テニスは過酷なスポーツで、体に大きく負担がかかります。日本人の肉体では無理だという限界説もありました。イチローみたいに徹底的に鍛えておかないと、本当に続かない。
錦織圭選手、怪我に苦しんだ松岡や辻野同様に体力的にかなり不安がある選手という印象でしたが、今回、かなり頑張りましたね。決勝で自分の力を出せなかったのは残念ですが、まあ、初めての決勝では、相手ではなく、トロフィーと戦うものなので、こうゆうこともあると思う。特にテニスは、他のスポーツよりも格段にプレッシャーがかかる稀なスポーツ。でも、そこで勝てば、本当に新たな世界が見えてくるし、世界が変わると思うから、今後、頑張ってもらいたい。身体だけ気を付ければ、そのうちグランドスラムをとってくれると思っています……。
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